みなさんは中四国地方第一の都市として、どこを思い浮かべますか?
多くの人は広島が頭に浮かぶと思います。
それもそのはず広島市の人口は120万人と、中四国地方最大そして唯一の100万人都市ですから。
しかし歴史がほんの少し違えばこの答えは岡山になっていました。
本記事では当時世間に衝撃を与えた、そして今見ても驚きの岡山県南100万人都市構想について見ていきましょう。
岡山県南100万都市構想とは
そもそも岡山県南都市100万人構想とは、1961年に岡山県知事三木行治により提唱されたものです。
岡山県南の33市町村の合併を行い、中四国地方の拠点都市を作ろうというものでした。
その背景は後ほど述べますが、実現していれば当時の全国六大都市(東京・横浜・名古屋・京都・大阪・神戸)に次ぐ、100万人都市が生まれていました。現在の人口では約140万人になっています。
もちろん広島市、さらには福岡市や札幌市よりも早く政令指定都市になってもいたでしょう。
当時合併が予定されていた自治体、および現在の自治体は以下の通りです。
現在の自治体 | 当時の自治体 |
岡山市 | 岡山市、西大寺市、赤磐郡瀬戸町、吉備郡足守町、吉備郡高松町、児島郡興除村、児島郡灘崎町、児島郡藤田村、上道郡上道町、都窪郡吉備町、都窪郡妹尾町、都窪郡福田村、御津郡一宮町、御津郡津高町、御津郡御津町 |
倉敷市 | 倉敷市、児島市、玉島市、浅口郡船穂町、吉備郡真備町、都窪郡庄村、都窪郡茶屋町 |
総社市 | 総社市、都窪郡清音村、都窪郡山手村 |
玉野市 | 玉野市、児島郡東児町 |
浅口市 | 浅口郡鴨方町、浅口郡金光町 |
瀬戸内市 | 邑久郡牛窓町、邑久郡邑久町 |
赤磐市 | 赤磐郡山陽町 |
早島町 | 都窪郡早島町 |
また地図上でのおおよその範囲は以下の通りです。
当時の構想には入っていなかった建部町が平成の大合併で岡山市に編入されたなど、現在の市域では正しく説明できないですが、概ね東は瀬戸内市、西は浅口市です。
東西で見ると東は備前市、西は里庄町・笠岡市を除きほとんどが組み込まれており、非常に規模が大きい合併構想であったことが分かります。
当時の市町村の平均面積からかけ離れていたのはもちろんですが、現在の他の市町村と比べるとどうなのかは後ほど見ます。
ではいったいなぜ、このような構想が持ち上がったのでしょうか。
次にこの構想が生まれ、そして頓挫した背景を見ていきましょう。
構想への時代背景とその後
構想の背景
この構想の背景には主に3つの要因が考えられます。
1.東京や大阪など大都市への人口・産業の過度な集中による都市問題の発生
都市と農村の経済格差を是正するための地方拠点都市建設が必要であり、そのために政府が提唱した新産業都市への指定を実現するため。
2.当時は昭和の大合併の時代であり、市町村合併の大波があったため
3.急成長する水島を中心とする発展を広範囲で享受できるようになるため
以上の背景を考えれば、唐突に見えるこの合併案もある程度は意味が理解できるのではないでしょうか。
頓挫する流れ
次にこの構想が頓挫する流れを見ていきましょう。
1962年4月、県南の33市町村で構成される県南広域都市建設協議会が発足しました。
合併協議会で合併期日は1963年1月と定められ、協議会の全ての市町村議会で合併賛成の議決が行わました。
議会では賛成を得ましたが、首長は全員が賛成というわけではありませんでした。
岡山市長の寺田熊雄は当初賛成でしたが、倉敷市長の高橋勇雄とともに途中から反対に回りました。さらに合併調印式当日にほとんどの首長の署名が行われた段階で、倉敷市長が署名を行わないまま公印を持ち出し東京へ一時失踪するという事件も発生しました。
また同じく市長が反対していた児島市と合わせて、3市が合併協議会から脱退しました。
これにより合併の中心的存在だった岡山市、倉敷市、児島市が合併協議から脱退するに至り岡山県南都市100万人構想は立ち消えとなります。
なぜ3市の市長は合併に反対だったのでしょうか。ここでは3つの理由を考えようと思います。
1.33市町村の財政格差
市長が合併に反対した3市は財政状況が比較的よく、合併してしまうといわば他の街にお金を吸い取られることになってしまいます。「金持ち自治体」の立場で考えると合併に反対するのも仕方のないことです。
2.県により推し進められた施策ということ
市町村合併は通常市町村側の意思からなされるものですが、この構想は岡山県知事より提唱されたものです。上からの命令ということで、市町村側の本気度は他と比べると小さかったのかもしれません。
3.新産業都市は1つの市にならなくても指定されるということ
構想が生まれた理由の1つに新産業都市の指定への実現がありましたが、そもそもそのために合併をする意味はなかったのです。
すったもんだの末実現しなかった100万人都市構想ですが、その後は各ブロックごとに合併されていきました。平成の大合併も経て、岡山市は政令指定都市に、倉敷市は人口50万人都市を抱える大都市になりました。
岡山、倉敷は文化も違い、今もそれぞれの良さを活かしながら街づくりを行っています。結果オーライという感じですが、やはりどうしても合併が行われ大岡山市になっていたらということも考えてしまいます。
最後にこの構想が実現していた場合の人口、面積、人口密度を見て、さらに人口規模の近くなる広島市と札幌市のデータと比べてみましょう。
構想が実現していた場合のデータ〜他都市との比較も交えて〜
大岡山市のデータはご覧のとおりです。
人口 | 約1397000人 |
面積 | 約1502平方km |
データは2020年の国勢調査から算出しました。
今の市町村域と完全に一致しているわけではないので、人口は若干試算になります。
人口100万人の大台を優に超えていますが、面積の大きさがやはり気になるところです。
では、現在中四国地方第1の都市、広島市と比較してみましょう。
大岡山市 | 広島市 | |
人口 | 約1397000人 | 約1201000人 |
面積 | 約1502平方km | 約907平方km |
人口は大岡山市が上回っていますが、面積はかなりの差があります。
やはり大岡山市は広すぎるのでしょうか…。
そこで、面積が広そうで、人口も近そうな札幌市と比べてみましょう。
大岡山市 | 札幌市 | |
人口 | 約1397000人 | 約1973000人 |
面積 | 約1502平方km | 約1121平方km |
面積の差は少し縮まりましたが、今度は人口が大岡山市の方が少なくなっています。
このように見てみると、大合併が行われていても人口が多いだけで非常に多極型の都市になっていたと思われます。今の岡山の中心がもっと大都会に…、ということにはなっていなさそうです。
ちなみに、現在大岡山市より大きい市町村はあるのでしょうか。調べると、2つありました。
1つは岐阜県高山市約2178平方km、1つは静岡県浜松市約1558平方kmです。
ただ両都市とも山の面積が大きく、可住地面積となると大岡山市の方がかなり大きくなるでしょう。
というわけで今回は岡山県南100万人都市構想について書きました。
少々無理があり構想が実現しなかったのも当然とも思えますが、妄想は自由です。
再び大岡山を…!?